種牡馬入りができなかったG1馬。G1を勝利したのに乗馬などになった理由は?

種牡馬になれなかったG1馬

競馬の歴史は、優れた馬同士をかけ合わせて、より優れた馬を生産していくことで作られてきました。

そのため、最もグレードの高いG1レースを勝利した馬は、
多くの場合種牡馬となってきました。

しかし、中には様々な事情で種牡馬になれなかったG1馬もいます。

今回はそんなG1を勝利しながらもなぜか種牡馬になることができなかった馬たちをご紹介します。

デルタブルース

デルタブルースは2001年5月3日にノーザンファームで産まれた
父ダンスインザダーク、母ディクシースプラッシュという血統の牡馬です。

1歳になると一口馬主のサンデーサラブレッドクラブから総額2400万円、1口60万円で募集にかけられました。

2003年11月に東京芝1600mにてデビューするも7着。

以降は2000m以上の中・長距離レースを使われることとなります。

6戦目で初勝利をあげると秋に1000万条件に勝利し菊花賞へと駒を進めます。

これまでの10戦3勝という実績から8番人気という低評価ながら、
好位から早めのスパートを見せ勝利します。

これが後にウオッカでのダービーなど多くのG1を勝利する角居調教師、
さらに騎手の岩田康誠騎手にとって初めてのG1勝利となりました。

その後はジャパンカップで3着、有馬記念で5着となり3歳のシーズンを終えます。

4歳では苦戦が続きステイヤーズSのみの勝利に終わり
5歳になると秋に同厩のポップロックとともにオーストラリアへと遠征します。

約半年ぶりの出走となったコーフィールドカップでは56kgのトップハンデを課され、
現地での前評判も高くはありませんでしたが、3着と健闘します。

そして次走のメルボルンカップでは早めに先頭に立つとポップロックとの競り合いを制し、
コロネーションカップやゴールドカップの勝ち馬イェーツらを抑えて優勝。

同レースでのアジア調教馬の優勝、及び南半球で開催されるG1競走での日本調教馬における初の優勝となりました。

まさに記録的な勝利となったのです。

このレースによってデルタブルースは後にこのシーズンのオーストラリア最優秀ステイヤーに選ばれました。
日本調教馬がオーストラリアの代表馬に選ばれたのは史上初のことでした。

その後は勝利に恵まれず、8歳の時に出走した目黒記念の16着が最後のレースとなりました。

通算成績は32戦6勝。
決して完璧な成績ではありませんでしたが、日本調教馬として初のオーストラリアでの優勝。
しかもメルボルンカップは、オーストラリアで祝日となるほどの大レースです。

それを勝ったのですから当然種牡馬になるものだと思われていました。

しかし引退時に発表されたのは、今後は乗馬となるということだったのです。

これは日本競馬がスピード重視となっており、長距離に強い馬に対して種牡馬としての需要がなかったためと言われています。

確かに成績を詳しく見てみると、デビュー戦以外はすべて2000m以上のレースを使われていますし、
勝利したG1は菊花賞が3000m、メルボルンカップが3200mという超長距離レースでした。

そうしたことを考えると、たとえ種牡馬となったとしても種付けを求める牧場がいないと判断されたのでしょう。

引退後のデルタブルースはノーザンホースパークで馬術の障害飛越競技用馬として運用され、
2021年10月からは岡山県真庭市蒜山のオールド・フレンズ・ジャパンで繋養されています。

ブラストワンピース

ブラストワンピースは2015年4月2日にノーザンファームで産まれた
父ハービンジャー、母ツルマルワンピースという血統の牡馬です。

1歳になると「ツルマルワンピースの15」として一口馬主シルクレーシングから
総額2000万円、1口4万円で募集にかけられました。ok

出生時より脚が内向していたことや、あまり見栄えがしなかったことなどもあり
比較的安い価格での募集となったようです。

そんな「ツルマルワンピースの15」は一口馬主の会員による命名で
ブラストワンピースという名前で競走馬登録がされました。

そして2歳の11月19日に新馬戦を勝つと、3連勝しG3毎日杯を制します。

そのままの勢いで2018年5月には日本ダービーへ出走。
2番人気に支持されながらもワグネリアンの5着に敗れます。

その後新潟記念を勝ち、菊花賞をフィエールマンの4着に終わると
年末にグランプリ有馬記念への出走を決めます。

有馬記念はファン投票により出走馬の一部が決まるレースで、世界で最も馬券が売れるレースとしても知られています。

まさに競馬界の頂点を決めるレースとも言える舞台です。

そんな有馬記念にブラストワンピースは唯一の3歳馬として出走し、
G1未勝利ながら最終オッズではレイデオロ、キセキに次ぐ3番人気に支持されます。

ゲートが開くと道中は6~7番手の外を追走。

4角地点から一気に仕掛けられ、直線で逃げ粘るキセキを残り100mで交わすと、
最後は外から追い込んできた1番人気レイデオロの追撃をクビ差退けて優勝します。

3度目の挑戦でG1初制覇を果たした瞬間でした。

その後は夏にG2札幌記念を勝利すると、秋にはフランスの凱旋門賞に挑戦をします。

そこでは11着に敗れてしまいますが、その次のG2アメリカジョッキークラブカップでは見事優勝。

その後は勝ち星に恵まれず故障してしまい、2022年1月に引退が発表されました。

生涯成績は18戦7勝、G11勝、G22勝、G32勝と見事な成績を残しました。

しかし、運命は残酷でした。

種牡馬入りが模索されたものの、引き取り手が見つからず乗馬となることが発表さたのです。

有馬記念を勝利しながら種牡馬入りをすることができなかったことについては、
競馬界でも大きな話題となりました。

有馬記念を制した時に騎乗していた池添謙一騎手はインスタgに次のように投稿しています。
「ダービー、菊花賞、大阪杯と自分が上手く乗れば勝ててたんじゃないかと…
そうすれば種牡馬としての道があったのにと…申し訳ない気持ちでいっぱいです。
有馬記念だけでも種牡馬になれると思っていました。」
「騎手としての責任を感じています」

このように、ジョッキーとしてもまさか種牡馬になれないとは思わなかったようです。

では、なぜブラストワンピースは種牡馬になれなかったのでしょうか。

最も大きい理由は、その血統だと言われています。

ブラストワンピースの父は2010年のキングジョージを11馬身差で制したハービンジャーです。

その父の実績、そしてブラストワンピースの実績から考えれば産駒は中・長距離の芝向きとなる可能性が高くなります。

しかし最近の競馬界では近年、スタミナよりもスピードが求められる傾向にあります。

そのためもしブラストワンピースが種牡馬になっても、需要がないと判断されたようです。

実際、同じハービンジャー産駒でマイルチャンピオンSを勝利したペルシアンナイトも、
引退後は種牡馬入りを果たすことができず、誘導馬となっています。

ペルシアンナイトのようにマイルでのG1を勝利していても種牡馬となれないのですから、
さらに長距離のG1しか勝っていないブラストワンピースはかなり厳しいと判断されたのでしょう。

種牡馬も需要と供給のバランスの上に成り立つビジネスと考えると致し方ないのかもしれませんね。

ロジック

ノーザンファーム以外の生産馬でも種牡馬になれなかったG1馬はいます。

それがロジックです。

ロジックは2003年3月17日に父アグネスタキオン、母エイプリルドラマという血統で産まれた牡馬です。

2004年のHBAセレクションセール1歳に上場され、前田幸治氏に税別2950万円で落札されます。

そして2005年10月にデビューをすると、クラシック戦線には進まずマイル戦主体のローテを組まれ、シンザン記念・アーリントンカップを好走します。

ニュージーランドトロフィーでも3着となり、NHKマイルカップへの優先出走権を獲得。

そしてNHKマイルカップでは、ここまで7戦全て3着以内という安定した実績と鞍上が武豊騎手という事もあり
フサイチリシャール、マイネルスケルツィに続く単勝3番人気と押されました。

レースではロスの少ない内ラチ沿いから末脚を伸ばし、
最後はファイングレインとの叩き合いを制し優勝します。

さらに日本ダービーでは11番人気ながらもメイショウサムソンの5着に好走します。

ただ、その後は精彩を欠き14戦して3着以内に1度も入らないという状況でした。

そうした中で2009年の小倉日経オープンで12着となった後に右前浅屈腱炎を発症し引退することとなります。

馬主の前田幸治氏は代表を務めるノースヒルズマネジメントの所有馬で重賞未勝利だったミスキャストや、
G32勝のグレイトジャーニーを種牡馬入りさせるなど、オファーがあればできる限り種牡馬入りをしていく方です。

しかしロジックにはそうしたオファーがなかったのかもしれません。

引退後は京都競馬場で誘導馬となることが決まります。

ロジックは屈腱炎の治療と誘導馬としての訓練を並行していき、2010年5月30日に誘導馬としてデビューします。

これは、平地G1を勝利した馬としては初めてとなる誘導馬としての仕事でした。

その後は2013年秋頃から2017年9月まで三木ホースランドパークで乗馬として供用されます。

そして現在は福島県南相馬市で引退名馬として繋養されているようです。

2021年には相馬野馬追で総大将を乗せていました。

ブルーコンコルド

G1を何個勝っても種牡馬になれなかった馬もいます。

それがブルーコンコルドです。

ブルーコンコルドは2000年4月11日に父フサイチコンコルド、母エビスファミリーという血統で産まれた牡馬です。

1歳の時に一口馬主のブルーマネジメントが総額2520万円、1口5万400円で募集されました。

2002年7月にデビューすると、11月にG2京王杯2歳Sに勝利。
翌年には皐月賞に駒を進めるも13着に敗れてしまいます。

その後も芝の重賞レースに出走をするも2ケタ着順が続いたことから、
2003年11月にダートの霜月Sに出走します。

すると6番人気ながら勝利をつかみます。

ここからブルーコンコルドはダート路線へと舵を切っていくこととなります。

その後はなかなかダートでも勝てない日々が続きましたが、2004年12月に出走したギャラクシーSから本格化していきます。

ギャラクシーSをクビ差で勝利すると、そこから6戦5勝2着1回という成績でG1JBCスプリントに勝利。

さらにここからは主にダートG1を使われていくようになり、最終的にG1を7勝し当時のG1最多勝記録に並ぶまでになりました。

つまりこの瞬間、シンボリルドルフやディープインパクトなどと並びG1を最も勝った馬となったのです。

しかし2009年11月のJBCクラシックを最後に引退をすると、行き先は乗馬と発表されました。

これは当時ダートの評価が低く、たとえダートでいくらG1を勝ったとしても種牡馬の需要はないという判断からだったようです。

同様に2005年に生まれダートG1を3勝したサクセスブロッケンも引退後には乗馬となりました。

ちなみに現在は、地方競馬の売上が好調で賞金額が上がっていることもあり、ダート種牡馬が人気となっています。

例えばダートG13勝ちのルヴァンスレーヴは種牡馬となり種付け頭数が2021年で223頭と国内最高の数字を叩き出しています。

もう少し産まれてくる時代が遅ければ、人気種牡馬になっていた可能性がある馬でした。

ブルーコンコルドの引退後は新冠町のハントバレートレーニングファームで乗馬として余生を過ごしていましたが、
2016年5月2日に蹄葉炎のため亡くなってしまいました。

時代によって需要が変わる厳しい世界

G1を勝利しながらも種牡馬になれないというのは厳しい世界ですね。

種牡馬になれないというのは、機能面で問題がなければ種牡馬になっても需要がないということです。

一般的に種牡馬になると、スタリオンと呼ばれる種牡馬を繋養する施設に入ることになります。

その場所の枠は限られていますし、預託料で年間500万円から800万円ほどかかると言われています。

それほどのお金をかけても種付けをしたいという繁殖牝馬が集まらなければ赤字ですから、
それならば乗馬としてしまった方が良いという判断がされることになります。

ただ、そうした需要というのは時代によって大きく変化していきます。

今後競馬のトレンドがスタミナ重視となれば、今回ご紹介したデルタブルースのような馬が人気種牡馬となるでしょうし、
現在のようなダートの評価が上がっている環境であればブルーコンコルドは種牡馬になれたことでしょう。

実力でG1を勝ちながらも最終的には時代に翻弄されるというのは少し悲しい面がありますね。

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