さらばナイスネイチャ。現役時代、そして引退後も偉業を成し遂げた名馬

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ナイスネイチャが2023年5月30日に35歳で死亡しました。

35歳という年齢は存命中のJRAの重賞勝ち馬の中で最高齢となる年齢で、
大往生と言えるのですが、ファンの悲しみは計りしれないものがあります。

今回はそんなナイスネイチャの追悼の意味を込めて、
彼の現役時代、そして引退後に成し遂げた偉業について見ていこうと思います。

有馬記念を3年連続で3着の偉業

有馬記念を3年連続で3着の偉業

ナイスネイチャは1988年4月16日に
浦河町の渡辺牧場で生まれました。

父ナイスダンサー、母ウラカワミユキ、母父ハビトニーという血統です。

母のウラカワミユキは現役時代にチューリップ賞を制しており、
父のナイスダンサーはカナダの最優秀3歳牡馬に選ばれたこともある名馬です。

そんな両親のもとに生まれたナイスネイチャは、骨膜炎の影響などもあり
春の皐月賞、日本ダービーには出走にこぎつけることができませんでした。

しかし夏には一気の4連勝でG3小倉記念、G2京都新聞杯と重賞を2勝します。

その後は菊花賞4着、鳴尾記念1着という成績を残し、年末には有馬記念へと出走します。

このグランプリの舞台で、これまでの勢いから2番人気に支持されたナイスネイチャでしたが、
ここは14番人気のダイユウサクが激走を見せ、有馬記念の歴史に残る大波乱が起きます。

それでもなんとか3着を確保したナイスネイチャ陣営は、翌年のG1勝利を誓います。

しかし古馬となった1992年は持病の骨膜炎が悪化し、初戦は10月の毎日王冠となりました。

そこで3着に入ると、続く天皇賞(秋)では4着、マイルチャンピオンシップ3着、
そして再び年末の有馬記念で3着と善戦はするものの中々勝つことができません。

さらに翌年の1993年も日経新春杯2着、阪神大賞典3着、大阪杯2着と
ナイスネイチャはどうしても勝ち切ることができませんでした。

そして大阪杯の後には骨折が判明してしまい、復帰戦の毎日王冠こそ3着となりますが
次の天皇賞(秋)では15着と大敗してしまいます。

さらにジャパンカップでも7着に敗れてしまい、
もうピークを過ぎてしまったと囁かれるようになりました。

そのような状態で挑んだ3度目となる有馬記念は、
評価を大きく下げて10番人気での出走となりました。

しかしそこでナイスネイチャは躍動します。

前を行くトウカイテイオービワハヤヒデには及ばなかったものの
後ろから迫ってくるマチカネタンホイザを押さえて3着に入り込んだのです。

これによりナイスネイチャは年末のグランプリ、有馬記念において3年連続3着という偉業を達成しました。

これまでも善戦ホースとして知られていたナイスネイチャでしたが、
この「有馬記念3年連続3着」という快挙はその後のナイスネイチャの代名詞となりました。

その後も走り続けたナイスネイチャは
高松宮杯を勝利したものの、それ以外は善戦止まりとなり
有馬記念でも4度目となった1994年は5着、5度目の1995年は9着と徐々に順位を落とします。

そして1996年には6度目の有馬記念を目指すも脚部の不安により回避し、
現役を引退することとなりました。

通算成績は41戦7勝で、
G1競走への出走16回、重賞競走への連続出走34回というのは当時最多の記録でした。

G1勝利こそなりませんでしたが多くの競馬ファンに愛されたナイスネイチャは、
現役引退後も世間の注目を浴びる存在となります。

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引退後も多くのファンに愛されたナイスネイチャ

引退後も多くのファンに愛されたナイスネイチャ

ナイスネイチャは引退後、1997年から種牡馬となりました。

残念ながらあまり活躍馬を出すことはできませんでしたが、
それでもファンの間での人気は健在で、1999年にはJRAでワイド馬券の発売が開始された際
キャンペーンキャラクターとして起用されました。

また、JRAが2000年に実施した「20世紀の名馬大投票」ではG1未勝利ながら71位に選ばれています。

そんなナイスネイチャは2001年に種牡馬を引退すると、
その後は故郷の渡辺牧場で引退馬協会によるフォスターホースとして余生を過ごすこととなりました。

このフォスターホースというのは、引退馬協会が所有する馬のことで
フォスターペアレント会員や助成金、寄付などにより資金を集めて引退馬の余生を支えています。

こうして多くの方に支えられたナイスネイチャは2021年、ラビットボールが死亡したことで
存命中のJRA重賞馬として最長寿の馬となりました。

母のウラカワミユキも過去に牝馬として最長寿の馬となっており、
親子二代に渡って長寿の記録を持つこととなったのです。

このように引退馬協会の支援により故郷で過ごすことができたナイスネイチャは
非常に恵まれた存在でした。

競馬において引退馬は、特に牡馬の場合はほとんどが悲しい最期を迎えます。

乗馬クラブに行ったとしても最後まで面倒を見てもらえることは稀で、
多くの場合は行方不明となってしまうのです。

それは重賞を勝ったような馬でも同じで、これまで複数のG1馬が行方不明となってしまっています。

こうした引退馬のその後についてはタブー視されている現状があるのですが、
この部分においてもナイスネイチャは多大な貢献をしました。

それがナイスネイチャのバースデードネーションです。

ナイスネイチャのバースデードネーション

これは29歳を迎えた2017年4月16日に開始されたもので、
簡単に言うと、誕生日を祝した寄付のことです。

ナイスネイチャの場合、
寄付で集まったお金を引退馬が余生を過ごすための支援金にあてようという取り組みでした。

初年度となった2017年は50万円を目標にして、48名から19万8000円の寄付が集まりました。

目標額には届かなかったものの、翌年の2018年にもこのバースデードネーションは継続されます。

すると今度は275名から67万円が集まり、2019年には325名から108万円、
2020年には404名から176万円が集まるようになりました。

これは徐々にナイスネイチャのバースデードネーションが認知されるようになっていった結果で、
このままのペースで行くだけでも当初の狙いは達成できる規模になっていました。

そうした中、事件が起きます。

2021年にもバースデードネーションを実施したところ、
1日で目標額である200万円を達成し、その後も次々と寄付が舞い込んだのです。

一週間後にはこれまでの10倍以上となる2,000万円を超え、
最終的には16,295名が支援し3,582万9,370円が集まりました。

突然の爆発的な寄付金額の増加には、
2021年2月に配信が開始された『ウマ娘 プリティーダービー』が関与していました。

このゲームの中にナイスネイチャが登場しており、
それをきっかけにバースデードネーションの存在を知った方々から多くの寄付金が集まったのです。

こうして予想外の多額の寄付金が集まった引退馬協会は早速動きます。

このお金をもとにディープスカイメイショウサムソンなどの引退馬を新たに
10頭以上受け入れることを発表しました。

そして寄付額のおよそ30%をプールして、
長期的な引退馬の支援に活用することとしました。

さらにこの多額の寄付により引退馬支援金に余剰が生まれたことから、
2022年は「再就職支援」をテーマとした34歳のバースデードネーションを実施します。

するとわずか4日で3500万円を超える寄付金が集まり、
最終的には17,155名から5,410万6129円が集まりました。

そしてさらに2023年には「地方競馬の重賞馬にも目を向けよう!」をテーマに実施すると
過去最高となる2,1621名から7,402万1008円が集まりました。

この寄付により早速地方の重賞馬であるタービランスが仲間入りを果たしており、
ナイスネイチャにより多くの引退馬がその余生を過ごすことができるようになりました。

これも35歳まで長生きしたことによりできた事だと言えます。

現役時代だけでなく、引退後にまで競馬界を支える存在となったナイスネイチャ。

その競馬界への貢献度は計りしれません。

死亡したことにより来年以降のバースデードネーションがどうなるかは分かりませんが、
引退馬のその後に光が当たるきっかけとなったことは間違いなく、
その影響は非常に大きなものがあります。

多くのファンから愛され、そしてそのファンとともに競馬界を支えたナイスネイチャは
まさにヒーローと言うべき存在でした。

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