代替種牡馬と言えば誰!?代わりの馬が大活躍した事例6頭

代わりの種牡馬が大成功

あなたは代替種牡馬という存在をご存知ですか?

代替種牡馬は、人気の種牡馬と血統構成が似ていることから
代わりの存在として種牡馬になる馬のことを指します。

通常は競走成績が劣ることもあり、失敗に終わるのですが
中にはその代替種牡馬が、本家を超えるような活躍を見せるケースもあります。

今回はそうした代替種牡馬として活躍馬を多数輩出した馬たちをご紹介していきます。

ブライアンズタイム

ブライアンズタイムは1985年に父ロベルト、母ケリーズデイという血統で生まれました。

現役時代は1988年フロリダダービー・ペガサスHなどを制しています。

当時の日本競馬はノーザンテーストなどの活躍もあり、
ノーザンダンサー系の繁殖牝馬が多い傾向にありました。

当時勢いのあった早田牧場は、
こうした日本の状況に対応するための種牡馬探しに奔走します。

まずそこで白羽の矢を立てたのがサンシャインフォーエヴァーでした。

しかし、サンシャインフォーエヴァーは現役時代にアメリカの最優秀芝牡馬に選ばれる活躍を見せており、
そのことから価格面で折り合いが付かず断念することになります。

そこで、父が同じで母が全姉妹という血統のブライアンズタイムを
代わりの種牡馬として購入し日本へ連れてくることにしました。

競走成績こそ劣るものの、血統構成からブライアンズタイムは日本で初年度から人気となりました。

これは同じロベルトを父に持つ種牡馬として先に活躍していたリアルシャダイの存在も、
ブライアンズタイムに期待を寄せられる要因でした。

そうした期待に応え、ブライアンズタイムは早速初年度産駒から結果を出します。

1994年の牡馬三冠を達成したナリタブライアン
同年のオークス馬チョウカイキャロルとクラシック4勝の大活躍を見せたのです。

その活躍は中央競馬だけにとどまらず、初年度産駒のブライアンズロマンが交流重賞の1998年さくらんぼ記念を含む、通算43勝を挙げ話題になります。

この43勝は戦後のサラブレッド最多勝という記録で、芝・ダート問わず活躍馬を出すということも
ブライアンズタイム人気沸騰の要因となりました。

その後も勢いは止まらず、ブライアンズタイムはマヤノトップガンサニーブライアンファレノプシスとクラシックを制覇する産駒を次々と輩出します。

王道路線の活躍馬のみならず、東京大賞典や南部杯を勝ったトーホウエンペラーや朝日杯3歳ステークスやマイラーズカップを勝った個性派マイネルマックスなど、多様な活躍馬を出していました。

それ以降もシルクプリマドンナノーリーズンタニノギムレットなどの活躍馬を出し、クラシックレースでの強さを見せつけます。

また、ダートではタイムパラドックスフリオーソなど、活躍期間が長く一時代を築くような活躍馬を出していきました。

母父としてもティコティコタックを筆頭に、ブルーコンコルドエスポワールシチーなど存在感ある産駒を輩出しています。

こうしたブライアンズタイムの活躍を受けて、
当時購入を断念したサンシャインフォーエヴァーも、後に日本で繋養されますが、
ブライアンズタイムの種牡馬としての活躍とは程遠い成績で終わっています。

日本においては代替種牡馬だったはずの立場が完全に逆転する形となったのも、競馬の面白さ・奥深さを表しています。

2012年にはレインボーダリアが産駒20年連続重賞制覇を記録した翌年の2013年。

ブライアンズタイムは放牧中の骨折により安楽死処分がとられましたが、
無事であればその後も種付け予定があったほど息の長い活躍をしました。

2022年現在はフリオーソが後継種牡馬として活躍しており、そこからサイアーラインが伸びていくかに注目が集まります。

Expand All

マグニテュード

マグニテュードは、1975年にアイルランドで生まれました。

競走成績は6戦0勝と未勝利に終わりましたが、日本で種牡馬入りすることになりました。

これは父が欧州の大種牡馬ミルリーフ、母がイギリスとアイルランドのオークス、さらにイギリス1000ギニーとG1を3勝したアルテッスロワイヤルという
超良血だったということが決め手となったようです。

日本では、同じくミルリーフを父に持つミルジョージが活躍していましたが、産駒が活躍し種付け料が高騰していったため、その代替種牡馬として期待されます。

その期待に応え1985年桜花賞を制したエルプスを輩出し存在感を高めていきます。

その後1989年ダイタクヘリオスを差し切り阪神3歳ステークスを勝ったコガネタイフウ
1991年京都4歳ステークス・中日スポーツ賞4歳ステークスを制したコガネパワーなどコンスタントに重賞ウィナーを送り出します。

そして1992年の皐月賞・ダービーの2冠を制したミホノブルボンが登場することで、種牡馬としての地位を確立することになります。

このミホノブルボンは、ミルジョージの種付け料が1回100万円を超える種付け料だったため支払えなかった牧場が、
2年で50万円という種付け料に設定されていたマグニテュードをつけて生まれた馬でした、

そのため、これぞ代替種牡馬としての役割を果たしたと言える存在でした。

これまで短距離から2000m前後での活躍馬を多く出していたマグニテュードからダービー馬が出たということで、種牡馬としての人気はさらに高まりました。

その後も1997年の京都記念を制したユウトウセイを出すなど、距離の融通が利く所を証明します。

さらに1999年に7歳でシーキングザパールを破って優勝するなど、短距離重賞4勝をマークしたマサラッキを出して成長力のある産駒も輩出しました。

こうした個性的で記憶に残る産駒を多く出したということも、マグニテュードの特徴の一つです。

そんなマグニテュードは2004年に死亡し、現在は余生を過ごした牧場に墓標が建てられています。

サイアーラインこそ途絶えていますが、牝系の中では今も産駒であるエルプス
孫にあたるテイエムオーシャンなどを通じて残っています。

フェアリーキング

フェアリーキングは、1982年にアイルランドで生まれました。

現役時代は1戦未勝利という成績で引退しましたが、全弟がアイルランド2000ギニーなどG1を3勝、
後に世界的な大種牡馬となるサドラーズウェルズということが決め手となり、その代替種牡馬として繁殖入りします。

叔父にもヌレイエフがいるという超良血で、それにもかかわらず種付け料が格安だったためで繁殖牝馬の集まりは上々でした。

フェアリーキングはその期待に応え、初年度産駒からいきなり1989年アイルランドのG1・フェニックスステークスを勝ったファラオズデライトを輩出します。

しかしその後の産駒成績はいまいちで、本国での存在感も薄れつつありました。

しかし1993年のフェニックスステークス、1994年アイルランド2000ギニーを制したタートルアイランドが出て再び注目を集めます。

そして1996年のリュパン賞とサンクル―大賞典、そして凱旋門賞を制したエリシオの登場でフェアリーキング人気はピークを迎えます。

その翌年1997年には日本でシンコウキングが髙松宮記念を制し、種牡馬として幅広い馬場適性・距離適性があることも示します。

このシンコウキングが髙松宮記念を制したのは6歳で、これまで早熟傾向が強いとされたフェアリーキング産駒の傾向を払拭した例でもあります。

特に日本に関しては、兄サドラーズウェルズに比べて活躍する産駒が多かった傾向にあります。
その後も毎年のようにG1を勝つ産駒を輩出し、1998年度産駒のファルブラヴは2002年から2003年にかけて世界を股にかけてG1を多数勝利します。

中でも、2002年の中山2200mで行われたジャパンカップの勝利が記憶に新しいというファンも少なくありません。

しかしその前の1998年にフェアリーキングは種牡馬を引退しており、翌年1999年には蹄葉炎が悪化し、安楽死処分となってしまいました。

残念ながらその血を更に広げるような後継種牡馬は出ていませんが、
日本ではファルブラヴが母父としてハープスターステルヴィオなどを出しており、牝系に入ってその血を広げています。

ヤマニンスキー

ヤマニンスキーは1975年にアメリカで生まれました。

アメリカからの持ち込み馬で、父ニジンスキー・母父バックパサーという血統構成でした。

これは当時破竹の勢いで勝利を重ねたマルゼンスキーと同じということもあり、デビュー前から種牡馬入りが決まっている存在でした。

脚部不安もあり競走成績は一息でしたが、デビュー前の予定通り良血を買われヤマニンベン牧場で種牡馬入りします。

先に引退・種牡馬入りしていたマルゼンスキーが種牡馬としても大成功をしていたため、ヤマニンスキーはその代替種牡馬として注目を集めました。

繁殖牝馬の質は決して良くなかったものの、初年度32頭、翌年68頭と、競走成績を考えると上々の種付け生活を送ることになります。

そうした状況からまず初年度産駒のハシケンエルドが1987年にオープン3連勝、有馬記念も14番人気3着と活躍を見せます。
そして翌年1988年には皐月賞を制覇、その後も1990年天皇賞・秋など重賞を5勝したヤエノムテキを輩出し、注目度は一気に上昇します。

続く1989年にもオークスを制覇したライトカラーを輩出し、単にマルゼンスキーの代替種牡馬としての域を超えるほどの成功を見せました。

以降も1992年京都大障害・春を制したアツムテキ、1995年カブトヤマ記念を制覇し地方ダート路線でも活躍したアイオーユーなど、個性派産駒を数多く輩出していきます。

その後も堅実に活躍する産駒を出し続け人気をキープしていましたが、1998年の種付け時期を迎える前に事故で死亡してしまいます。

その翌年の翌年の1999年、共同通信杯4歳ステークスを勝利し馬連114,650円という当時としては超高額配当をたたき出したヤマニンアクロを出しており、急逝が惜しまれた一頭でもあります。

母父としてヤマニンミラクルホッコーパドゥシャを出したことからも、その血の優秀さが伺えます。

フジキセキ

フジキセキは1992年に父サンデーサイレンス、母ミルレーサーという血統で生まれました。

サンデーサイレンスの初年度産駒の馬で、
デビュー前から牧場は一番の期待馬として「躊躇なく挙げられたほど傑出した馬」という高い評価をしていました。

現役時代は朝日杯3歳ステークスを含む4戦4勝という成績で、クラシック本番前に屈腱炎により引退します。

引退後はその活躍から種牡馬入りをしますが、
この時サンデーサイレンスは健在で、全盛期を迎えている時でした。

そのため人気面でどうかと思われましたが、
高騰していくサンデーサイレンスの種付け料や、種付け頭数が限界にまで来ていたこともあり
その代替種牡馬という役割も担い、フジキセキにも多くの繁殖牝馬が集まりました。

初年度こそG1戦線で活躍する馬が現れませんでしたが、
2年目にはG1を2着に2回なったダイタクリーヴァが出てきます。

さらに2005年にはカネヒキリがジャパンカップダートを制覇し、産駒の初G1制覇を成し遂げます。

他にもダノンシャンティイスラボニータなど多くのG1馬がその後活躍を見せます。

そしてシャトル種牡馬としてオーストラリアにも渡り、そこから高松宮記念を連覇したキンシャサノキセキが生まれています。

種牡馬ランキングでは、15年連続でベスト10入りするなど、父の名に恥じない活躍をした馬でした。

現在はその後継種牡馬としてカネヒキリやキンシャサノキセキなどが血を広げており、
カネヒキリ産駒からはロンドンタウンが種牡馬入りを果たしています。

ブラックタイド

ブラックタイドは2001年に父サンデーサイレンス、母ウインドインハーヘアという血統で生まれました。

デビュー前から非常に高い評価を得ていた馬でしたが、
屈腱炎の影響などもあり、現役時代はスプリングステークスのみの重賞1勝に終わります。

しかし現役中に全弟のディープインパクトが無敗での三冠馬となったことから
種牡馬入りを果たします。

ディープインパクトの代替種牡馬としての役割を担い、
初年度から150頭と種付けをする人気ぶりを見せます。

その初年度産駒からはデイリー杯2歳ステークスを勝利したテイエムイナズマが出ています。

そして2012年産からは、G1を7勝するキタサンブラックが生まれます。

歌手である北島三郎さんが馬主であることでも有名なキタサンブラックは、
年度代表馬2回、生涯獲得賞金18億7684万3000円という歴史的な名馬となりました。

弟ディープインパクトにも負けないような大物を輩出したのです。

そしてディープインパクトは残念ながら亡くなってしまいましたが、ブラックタイドはまだ現役の種牡馬として活躍しており、
さらなる大物誕生に期待がかかります。

競馬は血統が一番大事?

こうして代替種牡馬が活躍すると、やはり競馬は血統が重要なのかと思わされますね。

ただ、ブライアンズタイムとサンシャインフォーエヴァーの様に、
本来期待していた方が全く結果を残せないということもあるので、単純にはいかないようです。

そうやって試行錯誤をしていった結果が今の競馬になっているのでしょうね。

あなたはこうした代替種牡馬たちの活躍についてどう思いますか?
ぜひ意見や感想をコメント欄にお寄せください。
最後までご視聴頂きありがとうございました。
またあなたとお会いできることを楽しみにしていますね。
 

代替種牡馬と言えば誰!?代わりの馬が大活躍した事例6頭の関連記事