「有馬記念」レース名の由来になった男。中山グランプリから有馬記念になった経緯と有馬頼寧氏の功績

有馬記念の由来になった男

年末の風物詩として人気の高い有馬記念。

世界一馬券が売れるレースとしても有名ですが、
あなたはこの有馬記念の「有馬」とは何を差すのかをご存知ですか?

競馬のレースではよく地名が使われていますが、有馬記念はそうではありません。

実は、ある人物から名付けられたものなのです。

今回はそんな有馬記念が創設され、名付けられた歴史について見ていこうと思います。

ダービーに並ぶレースとして創設された有馬記念

有馬記念が創設されたのは1956年(昭和31年)のことです。

この年はモロッコやチュニジアがフランスから独立したり、
日本が国際連合に加盟した年でもあります。

それまでは、暮れの中山競馬場で一番の人気レースは中山大障害でした。

起伏に富んだ周辺の地形を活かした障害コースを駆け抜け飛越する姿が多くのファンを魅了していました。

しかし、春の東京競馬場で開催される日本ダービーなどと比較すると地味であることは否めませんでした。

そこで「暮れの中山競馬場で日本ダービーに匹敵するレースを作ろう」と、
当時の日本中央競馬会の理事長が号令をかけて設立されたのが、現在の有馬記念でした。

その特徴は、当時としては他に類を見ないファン投票で出走馬を決めるという方式でした。

現在はファン投票の得票の多い上位10頭に優先出走権が与えられる仕組みですが、
当時は全頭がファン投票もしくは推薦委員会による選出で出走馬が決められていました。

こうしたこれまでにない仕組みで出走馬が決まるレースは、初年度から多くの注目を集めました。

レース名は仮題として「中山グランプリ」という名前がつけられ、これも正式名称をファンから公募したのですが
これといった良い案が出てこなかったため、そのまま中山グランプリを正式名称として開催されることとなりました。

第一回競走となった1956年はファン投票で1位のキタノオーとわずか12票差で2位となったメイヂヒカリが見事勝利し、
キタノオーが2着となりました。

当時改修されたばかりの中山競馬場のスタンドには2万8000人もの観客が詰めかけたそうです。

この大成功を受け、中山グランプリは今後も年末に開催されていくはずでした。

しかしそこから17日後の1957年1月9日。

この中山グランプリの開催を推進した日本中央競馬会の理事長が、急性肺炎により亡くなってしまいます。

第1回の中山グランプリを大成功に導き、他にも競馬界に多くの貢献をしたことから、
その功績をたたえて、この理事長・有馬頼寧氏の名前をつけて、有馬記念と名称を改変したのです。

つまりこの有馬記念の有馬は、このレースの開催に尽力した日本中央競馬会の理事長の名字からとったものなのです。

とはいえ、いくら急逝したからといって理事長の名前をグランプリレースの名称にするというのは少し強引な印象もあります。

この有馬頼寧氏とは一体どのような人だったのでしょうか。

国と競馬を支えた有馬頼寧氏

中山グランプリを創設した有馬頼寧

有馬頼寧氏は、1884年(明治17年)12月17日に東京府東京市、現在の東京都で生まれます。

父は旧筑後国久留米藩主であった有馬家14代目当主の有馬頼萬氏、
母は明治維新に貢献した岩倉具視氏の五女で、有馬頼寧氏は長男として生まれました。

つまり名家の跡取りと生まれた有馬頼寧氏は、
東京帝国大学農科、現在の東京大学農学部に入学し海外経験を経て農商務省へと入省します。

そして39歳となる1924年には衆議院選挙に出馬して見事当選し、国会議員となります。

さらに1937年には農林大臣となり、並行して東京セネタースというプロ野球チームの経営もしていました。

まさにエリート中のエリートとして国を支えてきましたが、終戦後の1945年にはA級戦犯として巣鴨プリズンに拘置されるという経験もしています。

その後無罪が認められて釈放されますが、公職追放となり引退生活を送ります。

しかしそこから時が経った1955年に、農林省に招請され安田伊左衛門氏の後任として、第2代の日本中央競馬会理事長に就任します。

この時既に70歳でしたが、有馬氏は精力的に活動をしていきます。

まずは当時戦争により壊滅的なダメージを受けていた日本競馬を復興させるために尽力します。

特に施設の老朽化が進んでいた中山競馬場のスタンドは当時危険な状態にありましたが、その改修費用を捻出することすらできない状況でした。

そのため有馬氏はこれまで培ってきた政治力を活かし、当時の農林大臣だった河野一郎氏などに働きかけ
1960年末までの5年間、収益の一部を国庫に納付しなくても良いとする特例法を実現します。

これは「有馬特例法」とも言われており、彼のこれまでのコネクションや経歴が発揮されたものでした。

これにより費用を確保した日本中央競馬会は無事に中山競馬場のスタンドを新たに作ることができ、
中山グランプリの開催はその記念という意味合いもありました。

更に有馬氏はファンサービスの拡充に努めます。

PR機関として中央競馬サービスセンターを創設して日本短波放送によるレースの実況中継を開始した他、
競馬場内に託児所や遊園地を設置するなど子供を連れてこられる環境づくりを推進しました。

さらに中山グランプリのファン投票という仕組みは、彼が過去にプロ野球チームを運営していた経験から来ています。

プロ野球のオールスターゲームのように人気投票で出走馬を選ぶレースをすれば、ファンに喜んでもらえるという発想からだったと言われているのです。

つまり中山グランプリは、球団経営をしていた有馬氏だからこその発想で生まれたレースと言えます。

このように、有馬氏の理事長としての在任期間は2年にも満たないものでしたが、その功績は非常に大きいものがありました。

そのため有馬氏の名を後世にまで残そうという議論が起こり、中山グランプリは第2回から有馬記念へと改称されたのです。

もともと中山グランプリは仮題であったということも、有馬記念という名前へ改称することへの抵抗感がなかった一因だと考えられます。

こうした様々な要素が絡み合い、中山グランプリは現在の有馬記念となったのです。

国際的に評価されている有馬記念

有馬記念は現在国際的にも高い評価

有馬記念は現在、国際的にも非常に高い評価を得ています。

国際競馬統括機関連盟によると、有馬記念は2022年時点で世界8位のレースとしてランクインしています。

これは第4位の天皇賞(秋)に次ぐ、日本で2番目のレーティングとなっています。

日本ダービーは20位となっていることからも、レースレベルという点では有馬氏の望んだ日本ダービーに匹敵するレースというのを達成しています。

また、馬券の売上としては1996年にサクラローレルが制した年に875億104万2400円を記録しており
世界で一番馬券が売れたレースとしてギネス記録にも認定されています。

2021年においても490億円9724万6400円を売り上げており、普段競馬にあまり関心がない人も注目するような非常に人気の高いレースとなっています。

年末の中山競馬場に日本ダービーに匹敵するレースをと願った有馬氏の望みは、完全に叶ったと言えるでしょう。

今ではすっかり年末の風物詩として定着した有馬記念。

今年の有馬記念は、この有馬氏に少しだけ思いを馳せつつ楽しみたいと思います。

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