マルゼンスキーが最強すぎる!スーパーカーとも言われた伝説の競走成績や種牡馬としての活躍

マルゼンスキー伝説

あなたは、マルゼンスキーという名馬をご存知ですか?

マルゼンスキーは1974年生まれの、昭和を活躍した馬です。

世代としては、トウショウボーイやテンポイントの1年後輩にあたります。

連戦連勝を続けた無敗の名馬と評されるものの、いわゆる大きなレースを勝った経験はありません。
それでいて、未だに最強馬との呼び声が高いです。

一体何故なのでしょうか。

今回はそんなマルゼンスキーについて深ぼってご紹介していきたいと思います。

超良血のマルゼンスキー

マルゼンスキーの血統は良く、イギリスの3冠馬ニジンスキーを父に、超優秀な血統を持つシルを母にもちます。

ニジンスキーはノーザンダンサーの産駒で、1967年に生まれ現役時代はイギリス3冠を無敗で達成しています。

引退後は種牡馬入りし、世界的に活躍する数々の活躍馬や後継種牡馬を送り出しました。

有名な馬としては、イギリスでリーディングサイアーに輝くカーリアンや
ホクトベガの父として知られるナグルスキーなどを輩出しています。

現在でもその血統はニジンスキー系として続いています。

そして母のシルは、アメリカの殿堂馬であるバックパサーを父に、
エイコーンステークスなど14勝を挙げた実績のあるクィルを母にもつ馬です。

競走馬としての実績こそありませんが、血統は非常に優秀だと言えるでしょう。

ニジンスキーもシルも海外馬ですが、マルゼンスキーは外国産馬ではありません。

マルゼンスキー自身は、母のシルのお腹の中にいる状態でアメリカから日本にやってきました。
いわゆる持込馬と呼ばれる区分になります。

このような超良血のマルゼンスキーは誕生からも規格外でした。

なんと生後わずか10日後にシンジケート会員が募集されたのです。

このシンジケートとは、種牡馬の所有権を複数人で持つ仕組みです。

シンジケートに入り株を持つと、その種牡馬の種付け権を得られるのです。

人気が見込まれ種付けする相手を選ぶような種牡馬に対して組まれることが多いのですが
それをマルゼンスキーはまだ競走馬にもなっていない段階で組まれたのです。

これは当時持ち込み馬や外国産馬が非常に優秀な成績を収めていたためで、
実際に総額1億2000万円だったシンジケートは1ヶ月後には満口となったそうです。

しかし、マルゼンスキーが誕生した数ヶ月後、その評判に影を落とす出来事が起こります。

マルゼンスキーと同じくニジンスキーを父に持つ、ニジンキースターという馬がデビューしたのです。

ニジンキースターもまた期待されていた馬だったのですが、デビュー戦で惨敗してしまい、そのまま1勝もできず引退となります。

これを受けてマルゼンスキーのシンジケート会員が大量離脱してしまい、
最終的には8人しか残らないという事態に発展しました。

当時ニジンスキー産駒にはメイワイランという別の馬もいましたが、こちらは未出走のまま引退しています。

マルゼンスキーはニジンスキー産駒の2世代目で、
産駒が世界的に活躍し始めるのはこの約10年後だったことを考えると
当時期待値が急降下したのも仕方がないのかもしれません。

さらに、マルゼンスキーには外向という身体的特徴がありました。

これは膝から下が外向きに曲がっていたり、蹄が外に開き気味であることを指します。

マルゼンスキーの外向は成長するにつれ度が増していき、脚曲がりと揶揄する者もいたほどでした。

外向は多少ならば個性の範疇とされるものの、極端な場合は脚同士がぶつかることで故障リスクが高かったり、パワーロスに繋がると言われています。
そのため、強い調教をすることができず、ある程度セーブしながら走らせる必要があるのです。

このような背景から、マルゼンスキーは競走馬として大成できないと思われていたのです。

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圧倒的な実力を見せたマルゼンスキー

そんな脚部の不安を抱えたまま迎えたデビュー戦で、マルゼンスキーは他に大差をつけます。
芝1200mという短距離レースにも関わらず、2着との間に2秒も差をつけてのとんでもない圧勝でした。

続く、いちょう特別も9馬身差で逃げ切り、こちらも圧勝します。
この時の勝ちタイムは、同年のスプリンターズステークスと同じでした。

逃げ馬というわけではなく、スピードの絶対値が違う状況でした。

続くオープン特別の府中3歳ステークスでも、マルゼンスキーは勝利を収めます。

ただこの時は北海道3歳ステークスの勝利馬ヒシスピードと激しい争いとなり、僅差の勝利となりました。

こうした苦戦を強いられた理由は、騎乗していた中野渡騎手本人が自分の騎乗ミスだと語っています。

マルゼンスキーの能力に心酔し、どう乗っても勝てるなら楽に勝とうと思ったとのことでした。

この苦戦に陣営も反省し、のちに伝説となる朝日杯3歳ステークスに向け、初めて全速力で走らせる調教を行います。

そして来たる朝日杯3歳ステークスでは「壊れてもいいから全力で行け」という指示が騎手に出されました。

その結果、マルゼンスキーは前走でハナ差だったヒシスピードに2.2秒の差をつけ、とんでもない圧勝劇を見せたのです。
13馬身以上の圧倒的な差でした。

勝ちタイムは1分34秒4で、これは2年前のダービー馬コーネルランサーが持っていた
3歳時の芝1600mのレコードを0.2秒も更新するタイムで、
これは以降14年間破られることがなかった数字でした。

さらに中山芝1600mの日本レコードも0.7秒も上回ります。

この偉業に対して中野渡騎手は「馬の上に跨っていただけ」と語るほどで
2着のヒシスピードの騎手も「バケモンだ」と驚愕したそうです。

こうして無敗の最優秀3歳牡馬にも選出され、大量離脱により存続できなくなっていたシンジケートも以前より高額で再結成されました。

総額2億5000万円と、前回に比べて1億数千万円以上の値上がりとなりましたが、すぐに満口になったといいます。

ちなみに前回シンジケート会員を離脱した人の再申し込みは一律拒否されました。

翌年4歳(現在の表記では3歳)になったマルゼンスキーは中京のオープン競走に出走予定でしたが、ここで不測の事態が起きます。

凄まじいポテンシャルのマルゼンスキーが出走すると知って、当該レースを回避する馬が続出してしまったのです。

その結果、なんと頭数不足であわやレース不成立になる寸前にまでなりました。

最終的に2頭出走させてくれた調教師がいたことでギリギリ成立となりましたが、
この調教師から「タイムオーバーのような大差は勘弁してくれ」と頼まれるほどでした。

その後もマルゼンスキーの出走レースは10頭を超えることのない小数頭のものばかりとなり、
強い馬が出走することで回避馬が続出し小数頭でのレースになることが「マルゼンスキー状態」と呼ばれるようになりました。

年明けの1977年1月に中京のオープン競走で勝利を収めたマルゼンスキーでしたが、膝を軽度骨折してしまいます。

しかし無事復帰し、5月にオープン戦で復帰するとそこも2着に7馬身差をつけて快勝。

今なら当然日本ダービーへと進む流れですが、
当時マルゼンスキーにはクラシックレースへの出走権がありませんでした。

なぜマルゼンスキーがこのような不遇の扱いになったかというと、
出自が持込馬だったことと、生まれた時期が関係しています。

ポイントは1971年です。

マルゼンスキーが生まれる3年前となるこの年、競走馬の輸入が自由化されて海外の馬が日本に入りやすくなりました。

その見返りとして、内国産馬を保護する目的でいくつかの決まりが生まれました。

その内の一つが、自由化以降に輸入された繁殖牝馬から生まれた仔は外国産馬とほぼ同等の扱いを受けるというものでした。

これにより、今までは持込馬でも出走資格があったクラシックレースと天皇賞について、1977年の時点では出走が全面的に禁止されてしまっていたのです。

ちなみにこの決まりは1983年に廃止され、持込馬の扱いは再び内国産馬と同じになっています。

つまり1971年から1982年までの約10年間だけ持込馬はクラシックレースに出走できない状況だったのですが、
マルゼンスキーはこの10年間に見事に入ってしまったのです。

「ダービーに出たい」「枠は大外でいい」「他の馬の邪魔はしない」「賞金もいらない」など、
当時主戦騎手であった中野渡氏が残した言葉は、日本競馬史上屈指の名言とされています。

しかしどんなに訴えても状況は覆らず、マルゼンスキーは残念ダービーとの俗称を持つ日本短波賞に出走し、圧勝しました。

2着のプレストウコウより1kg斤量が重かったにも関わらず、7馬身差をつけての圧勝でした。

レース内容も異彩を放っており、道中は大逃げをしたものの3コーナーで突然の失速。
後続に並ばれると再度加速して突き放すというものでした。

ちなみにこの2着となったプレストウコウは後に菊花賞を制し、天皇賞も2着となるなどの活躍をしています。
そうしたことを考えると、マルゼンスキーがクラシックに出られていたらどうなっていたかと考えさせられます。

さらに翌月にはダート1200mの短距離ステークスに出走したマルゼンスキーは、
ただでさえ差のつきにくいダート短距離戦で2着に10馬身差をつけての圧勝を遂げました。

芝でもダートでも圧倒的な実力を見せたマルゼンスキー陣営は
唯一出走可能な大レースである有馬記念を目標に掲げます。

しかしマルゼンスキーはここで屈腱炎を発症し、そのまま引退することとなります。

ちなみにこの年の有馬記念は、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスが上位を争った伝説のレースとなりました。
そこにもしマルゼンスキーが出走していたらどうなっていたのか。
そんな想いを馳せる者は少なくありません。

生涯成績8戦8勝というまさに完璧な成績を残したマルゼンスキーは当然この後、種牡馬としても大きな期待が寄せられるようになります。

種牡馬となっても大成功を収めたマルゼンスキー

生後10日からシンジケートが組まれたマルゼンスキーでしたが、
その期待に応えるような実績を掲げて牧場に帰ってきました。

そして初年度の1978年には59頭、1979年には72頭と種付けをしており、当時としては大人気種牡馬となりました。

産駒からはホリスキーやサクラチヨノオー、レオダーバンなどのクラシックホースを送り出し、
その種牡馬成績から1990年にはJRA顕彰馬に選出されています。

その人気は最終年となる1997年にも72頭と種付けしていることからも、衰えることがなかったことが分かります。

そんなマルゼンスキーは1997年8月に心臓麻痺により亡くなってしまいます。

理想とする競走生活が送れなかったマルゼンスキーですが、
逆にその結果伝説的名馬として語り継がれているとも言えます。

持込馬が不遇の時代でなければ、クラシックレースや有馬記念に出走できていたら。
マルゼンスキーほどタラレバが多い馬はいないかもしれませんね。

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